monochrome
額から流れ落ちた汗は顎先を伝い、コンクリート上へと滴り落ちていく。
信号待ちのその最中、頭上から燦々と照り付ける夏の日差しに目を細めつつ、児嶋は湿った手の甲でとめどなく溢れるそれを拭い続けていた。
病院から然程離れていない場所での往診なのだから、わざわざタクシーに乗る必要もないだろうと徒歩で出掛けた判断はどうやら間違いだったらしい。年々、勢いを増していくような日差しはものの数分で冷房により冷えていたはずの児嶋の全身を汗で濡らし、容赦なくその水分を奪い続けるのだ。
眼前の信号は未だ赤色を灯したまま、乗用車たちの往来を許し、歩行者の往く手を遮っている。
ただその場に立ち止まっているだけにも関わらず、児嶋の呼吸は徐々に弾み、普段は青白い頬すら上気して燻るような熱を持った。
やけに長い赤信号だと密かに溜息を零したその時、
「お前、混沌に触れたな」
背後から凛とした男の声音が、唐突に問いかけてきた。
驚いて振り返ろうとした瞬間、児嶋は信じられない光景を目の当たりにする。
どこまでも広がる青空が、照り付ける日差しが、足を止めていた赤信号の明かりが、過ぎ行くすべての色が――消え失せていた。
夢でも見ているのだろうか。
児嶋の額から、今度は熱射によるものではなく、恐怖から溢れ出した汗が顎先へと新たに伝い落ちていく。
「……!」
恐る恐る背後を振り返る。
そこに佇んでいたのは〝児嶋自身〟であった。
「更なる狂気が欲しいか」
「……ッ、あ……」
薄く笑みを浮かべた己が、上気した児嶋の頬を包む。
嫌だとも、やめてくれとも言えなかったのは、慄きに喉を塞がれた為か、それとも心のどこかで恐怖を望んでいたからなのか。
「僕は……」
だが、しかし。返答を口にしようとしたその直前、強烈な眩暈と共に色を失くしていたはずの世界が、動き出す。
茹だるような日差しと白昼夢のような事象に掻き乱され、児嶋は念願の青信号がようやく灯ったにも関わらず、その場に蹲り、今にもなにかを吐き出してしまいそうな自身の口元を掌で覆った。
「あの、大丈夫ですか」
そう声を掛けてきたのは、背後に佇んでいた例の己自身――ではなく、見知らぬ長身の若い男である。
「ッ、すみません。少し気分を悪くしてしまって……」
取り繕いながらも差し伸べられた親切な手を握り返したその瞬間、
「混沌へようこそ、児嶋さん」
男は嗤い、ふらつく児嶋を優しくその腕へと抱いたのであった。