天下無双の究極遊戯

Vtuber戦国時代を斬り進む尾張の女武将

お寿司食べたい

衝動というものは、大抵の場合、なんの前触れもなく唐突に訪れ、人々の心をどうしようもなく揺るがせる。
感情の起伏が一見、稀薄である児嶋にとってもそれは例外ではなく、今まさに酢飯と海鮮――要するに、寿司を食らいたいというどうしようもない衝動的欲求に取り憑かれ、重い足を引きずりながら馴染みの日本料理店へと続く道を急いでいた。
いつだったか、とある接待の際に訪れたそこは所謂〝寿司屋〟ではなく、懐石なども取り扱う店なのだが、握り御前はなかなかの絶品で何度訪れても食い飽きる事がない。
特にイクラの軍艦は絶品で、咀嚼するたびに弾ける旨味と感触が堪らなかった。それと、甘エビの優しい味わいも捨てがたいし、玉子のふわふわとした柔らかさも思い出しただけで口元がつい緩んでしまう。
今夜もそれらの食感を求めて、児嶋はようやく辿り着いた店の引き戸に手を伸ばし、急いた足取りで暖簾を潜る。
が、しかし。

「……ッ」

敷居を跨いだその瞬間、全身に重りを付けられてずぶずぶと沼に沈んでいくような奇妙な感覚を覚えた。
何事かと訝しんだが、もう遅い。
児嶋の意識は唐突に途絶え、視界はブラックアウトした。



「……?」

次に意識を取り戻したその時、児嶋は見知らぬ座敷に腰を下ろしていた。
壁と襖に隔てられた個室らしいその部屋で、いつの間にか自分は正座という畏まった姿勢を取り、黒塗りの和式机に視線を落としていたのだ。
まさか軒先で倒れていた自分を、店主たちが個室へ運び込んでくれたのだろうか。だが、それにしてもこのような姿勢で意識を取り戻すなど、あまりに不可解な話である。
そもそも――。

「ここは、一体……」

児嶋が訪れたはずの日本料理店とは、まったく別の場所で目を覚ましている可能性が高い。
ありきたりな和室ではあったが、漂う不自然な静寂に違和感を覚え、ここが通い慣れた店ではないと根拠もないまま児嶋は確信する。
なにかが、おかしい。
正座のまま落ち着きなく辺りを見回していたその時、襖がするりと開かれた。

「この度は、日本料理布袋風へお越しくださり、ありがとうございます」

現れたのは、和服に身を包んだ妙齢の女である。
三つ指をつき、丁寧に頭を下げるその姿はいかにも高級料亭の若女将といった風体だが、未だ状況を飲み込めていない児嶋の目には、彼女が酷く不審な人間に思えてしまう。

「当店主自慢の寿司フルコースを、どうぞ心逝くまでお楽しみ下さいませ」

なにか尋ねてみた方がいいのだろうか。
だが、気後れしている隙に女はいそいそと立ち上がると、実に優雅な手つきで再び襖を開き、どこかへ姿を消してしまった。

「あ……」

一体、自分はどういった経緯でこの個室に通されたのだろう。
尋ね損ねた質問は、言葉とならずに宙を舞う。
再度、和式机に視線を落とすと、お品書きと印字された冊子を見つけることが出来た。
手を伸ばし、それをゆっくりと開く。
料理の写真などは一切、見当たらない。達筆な筆書きで料理の名前が羅列されているようだが――どうしてだか児嶋は、そこに記載された文字の数々を、一切読み取ることが出来なかった。
見慣れた日本語で記されたその文章は、解読されぬまま脳を滑り落ちていく。
眩暈を覚え、児嶋は冊子を慌てて閉じる。

「これでは、注文が出来ませんね……」

だが、女は「フルコース」だと言っていた。
この店に予約を入れた覚えもなければ、予めメニューを注文した覚えもなかったが、恐らく待っていれば勝手に料理はやって来るだろう。

「日本料理、布袋風……」

料理を待ちながら、児嶋は先ほど女が告げた店名を小さく口の中で呟いてみる。
聞き覚えのない店名だった。

「……入るお店を間違えてしまったのでしょうか」

寿司が食べたいという欲求に突き動かされるまま、よく周りを確認もせず別店の暖簾を潜った可能性があるかもしれない。
だが、そうだとしても予め注文されていたフルコースについては全く説明がつかなかった。
空腹のあまり、夢遊病のような症状が出たのだろうか?
つい先日、食事中に巻き起こったとある騒動のこと思い出し、まさか自分の身にも食に纏わる不可解な現象が降りかかってきたのではと思わず眉を顰めてしまう。
しかし、そんな児嶋の不安をよそに、和服の女は個室への出入りを繰り返し、淡々とした手つき、そして実に簡潔な説明を添えて和机へと次々に料理を並べていった。
根菜のサラダに、琥珀色のたれが掛けられた茶碗蒸し、そしてメインディッシュである寿司の盛り合わせ――。
丁寧に盛り付けられたそれは、視覚的にも非常に食欲をそそられる。
恐る恐る箸を伸ばし、まずは根菜を口へと運んでみた。
しゃきしゃきとした歯ごたえが、非常に小気味よい。
茶碗蒸しもつるりとした舌触りと出汁のよく効いた卵が非常に美味である。
そして児嶋が切望していた寿司の方も、実に美味かった。
不可解な空間に身を置きながらも腹の虫には勝てず、児嶋は並べられた料理を黙々と口へ運んでいく。
だが、吸い物の椀に手を伸ばしたその時、異変は起こった。

「……ん?」

椀の中に沈んだ二枚貝が、閉じたままだった。
恐らくアサリかなにかだと思うが、砂抜きに失敗したのだろうか。
しかし、これだけの料理を提供する日本料理店が、閉ざされたままの貝をいくつも沈めて客に提供するだろうか――。
不審に思い、行儀が悪いとは承知しながらも児嶋は閉ざされた貝を箸でひとつ摘まんで取り出し、その中身をこじ開けようと試みる。
すると、ぴったり合わさっていたはずの貝が、ほんの僅か、ぱかりと口を開けた。
その隙間から覗いたもの。それは、灰色をしたゼラチン質の物体である。
――明らかに、アサリではない。
驚きに目を丸めたその瞬間、あろうことかその灰色の物体は緑色の閃光を放ち始め、あまりの眩しさに目を閉じた児嶋の隙を見計らったかのように再び固くその口をぴったりと閉ざしてしまう。

「……っ、これは……!」

やはり、なにかがおかしい。
児嶋は思わず口を押さえ、何度か軽く嘔吐きながらむせ込んだ。
医者として生物に関してはそれなりに学んできたつもりであったが、生憎と魚介に関する知識は乏しい。だが、あのように発光する貝の存在など、少なくとも児嶋は一度たりとも耳にしたことがなかった。
それに、どろりと震えていたあの物体は一体なんだったのか。
そして、今まで自分が口にしていた品々も、もしかすると……。

「ッ、は……」

途端に、気分が悪くなる。
相変わらず女は淡々と料理を運んでは姿を消していくが、もうそれらに口を付ける事など児嶋には出来なかった。
早くここから立ち去らなければ。
腰を上げたその瞬間、まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、和服の女が再び襖をするりと開けて登場する。

「こちらが、お上がりになります。御勘定は、帳場にて……」

和机に湯飲みを置いた彼女は初めて姿を現した時と同じく三つ指を付いて丁寧に頭を下げた後、二度と個室に姿を現す事はなかった。
手つかずの料理が未だ大量に残されたままであったが、構いはしないと今度こそ児嶋は腰を上げると、ふらつきながら個室を抜け出し、奇妙なまでに薄暗い廊下を抜けてどこにあるのかも分からない帳場を求め歩き出した。
ほどなくして無人の帳場へと突き当たったのだが、そこには一枚の張り紙が貼られているだけで、キャッシャーなどの類は一切見当たらない。
――お代は、お客様の笑顔の「ご馳走様」でございます。
張り紙には、そんな一文のみが掲載されていた。

「……」

注文の多い料理店のように、もしや今度は自分が食材として物の怪に食われてしまうのではないだろうか。
そんな不安を覚え、児嶋はあたりを見回したが何者かが個室を抜け出して児嶋を追いかけてくる気配もなければ、誰かが息を潜めてこちらの様子を窺っている様子もない。
だが、このまま店を出たところで、無事に自宅へ帰りつけるのかどうか――甚だ疑問である。
少し、調べてみるかと児嶋は顔を上げると、帳場の奥、関係者以外立ち入り禁止と記載された扉の存在に気が付いた。
そこには「厨房」というプレートが掲げられている。
閃光を放った謎の二枚貝を、あそこで調理しているという事だろうか。
覗いてはいけないと分かっていながら、それでも覗かずにはいられなかった。
好奇心は猫をも殺す、などという言葉が頭を一瞬過ったものの、悪い意味で実直な児嶋は自らが口にした料理の正体を見極めなければならないと、気が付けば勢いを付けて扉を開いてしまっていた。
瞬間、両足が竦み、数拍を置いた後で震えだす。
眼前に広がっていたのは、混沌の闇。上下の区別もない漆黒が、ただそこには広がっていたのだ。
なによりもおぞましかったのは、そんな闇の中で捌かれ、鍋で煮られたり焼かれたりしている化け物たちの姿であった。
羽根をもぎ取られ、四肢を切り落とされ、割かれた腹から臓物が掻き出されて捨てられていく。
耳にしたことのない、金切り声やおどろおどろしい呻き。恐らくそれは、自らの肉体を容赦なく調理されていく化け物たちの断末魔だろう。

「あ……!」

あまりの光景に悲鳴をあげようとしたその時、闇の中から板前法被を身に纏った男が突然姿を現し、咎めるような視線をこちらへゆっくりと向けた。

「困るなあ、ここは関係者以外立ち入り禁止なんだけど」

男の姿は一見、普通の人間にしか見えなかった。
だが、右手に握られた刺身包丁は化け物たちの流した血液だろうか、実に毒々しい緑色の液体でその刃を汚していたうえ、左手にはたったいま切り落としたのであろう、深紅に染まった得体のしれない触手のようなものが握られている。

「まあいいや。君、布袋風の料理は美味しかった?」

尋ねられ、児嶋は言葉を詰まらせる。
味には、文句のつけようがなかった。だが、このような光景を目の当たりにしてしまっては、素直に「美味かった」などと料理を褒めるわけにもいかない。
どう答えるべきか、考えあぐねていたその最中、突如意識が遠のいた。

「……ッ、ここは……」

次に目を覚ました時、児嶋は馴染みの日本料理店から立ち去ろうと暖簾を潜っているところであった。
最初に意識を失った時とは逆に、今度は店内から外へと足を踏み出している。
今までの出来事は、夢だったのだろうか。
だが、確かに腹は満たされていたし、味わった根菜の食感や出汁のきいた茶碗蒸しのとろけるような舌触りが、未だ食道に残り続けている。
満たされた衝動と欲求、それと引き換えに手に入れた恐怖と不快感――。
児嶋は掌で唇を覆いつつ、もう当分寿司は口にするまいと密かに誓いながらふらつく足取りで家路を辿った。