三、腹中の怪物
乗車したタクシーから飛び出すや否や、児嶋はアパートの階段を駆け上がる。
「雛芥子さん!」
インターフォンを鳴らす手間さえ惜しんで辿り着いた部屋の扉を無遠慮にこじ開けたところ、靴が脱ぎ散らかされている三和土にて蹲っている雛芥子の姿を見つけることが出来た。
コンクリートで塗り固められたそこに膝をついて咳き込むその姿は、自身の五臓六腑をすべて口から吐き出そうとしているような凄惨さが漂っている。
「なにが起こったんです?」
力なく丸められた広い背中をとりあえず摩ってやろうと児嶋も側へと膝をついて手を伸ばしたのだが、ふと蹲った雛芥子の下、巨体の蔭に隠れていたとある異物を発見する。
くしゃりと丸められたそれは、何かの書類だろうか。それは雛芥子の口端から滴る唾液に塗れ、所々がしっとりと濡れてしまっていた。
「……まさか、紙を飲み込んだんですか?」
「ッ、はは……。察しがいいな、センセ」
咳き込みながらもその口元をシャツの袖で拭いつつ、雛芥子がおどけたように肩を竦めた。
「なんでもいいから飲み込みたくて……。気が付いたら飲み込んじまった」
瞬間、脳裏に浮かんだのは昼間の光景――食欲に取り憑かれ、異形の魔物と化した石沢の姿であった。
まさか彼にも、同じ症状が出ているというのだろうか。
「ったく、参ったよ。このままどうにかなっちまうとこだった」
「紙なんて飲み込んだら、誰だってどうにかなります。とりあえず、部屋に入りましょう」
しかし、疑惑を口にするより先にまず雛芥子の介抱であると児嶋は喉までせり上がった懸念をどうにか飲み込むと、自分よりも二周りほど大きな彼の身体を支えてやりながら部屋の奥へと足を踏み入れたのであった。
雛芥子を古びたソファへと寝かせ、とりあえず脈拍を計ってみる。
続いて心音も掌越しに聞いてはみたが、不整脈の兆候などもなく、異常は見当たらない。
とりあえずは問診をしてみるしかないかと児嶋は濡らしたハンカチを彼の額に当ててやりながら、一体なにがその身に起こったのか順序だてて説明をしろと雛芥子を少々厳しい口調で問い質した。
「急に食い気が湧いたんだよ。あんだけ中華食った後なのに、糖質制限中かよってくらい飢えた感じになって……」
――強烈な食欲。やはり、石沢に表れた症状と酷似していた。
「だからって、紙を飲み込むことはないでしょう」
しかし、どこかでそれを認めたくないと怯える児嶋は思わず強い口調のまま雛芥子を咎めるような台詞を吐き出してしまったが、
「俺だってなァ、飲み込みたくて飲み込んだワケじゃねェよ。自分の意志じゃ、どうしようもなかった」
雛芥子に反論され、やはり目を逸らすわけにはいかないかと思い直し、押し黙る。
「……止めてくれる奴がいねえと、今度は煙草まで呑み込んじまいそうだ」
自らの意志に反して急激に沸き上がる衝動、そしてそれが例え食べ物でなくとも思わず口にしてしまう程の強烈な飢餓――。
このままでは雛芥子もまた、石沢のように食欲へと取り憑かれ、やがてはその姿を消してしまうだろう。
「雛芥子さん、こんな状態の貴方を放っておくわけにはいきません。事が落ち着くまで、僕の自宅に居てもらいます。それと……」
念のため、腹部への触診がしたいと児嶋は彼の同意も得ないままシャツの裾を捲り上げると、胃の様子を窺うべく鳩尾の辺りへそっと指先を落とし、なにか異物はないかと皮膚越しに感覚を探ってみる。
すると、横行結腸の辺りだろうか、沈めた指先になにか不自然なしこりのようなものが当たった。
腫瘍だろうか。いや、それにしては大きすぎるような気もする。
大体、これほどまでに巨大な腫瘍を抱えていたとしたら、大腸という場所から考えて健康状態になんらかの異変があって然るべきだ。仮に悪性腫瘍だとしても、下血などの症状が既に出ていてもおかしくはない。
だが、彼の様子から察するに恐らくこれは、医療で解決出来るような病巣ではないのだろう。そもそも、何らかの自覚症状や心当たりがあれば、先ほどの詰問の際に雛芥子はそれを訴えているはずだった。
「腹部になにかしこりが……。紙以外に呑み込んだものはありますか?」
もしや、理性を失っている間に紙以外の異物を飲み込んだのではと尋ねてみたものの、どうやら強烈な食欲に苛まれている間の意識はどこか遠くに飛ばされているらしく、雛芥子の返答は「覚えはないが、飲み込んでいないとは断言できない」という非常に曖昧なものであった。
「とりあえずは中に何が入っているのか、確かめてみましょう。消化器内科に知り合いが居ますから、CTを撮影して頂きます」
現時点で発見できた異変といえば〝雛芥子の腹部に何かが在る〟という事だけだ。
果たして現代医学で立ち向かえる相手なのかどうか、定かではなかったが他に方法はない。
児嶋は懐から取り出したスマートフォンから学生時代の旧友である内科医の連絡先を呼び出すと、診察とレントゲン撮影の約束を取り付け、雛芥子を伴いまずは市内のとある大病院へと向かった。
腹の中を覗きさえすれば、事は多少なりとも動くと思っていた。
が、しかし――。児嶋たちを待ち受けていたのは、更なる混沌と悍ましい光景であった。
「これは――」
ディスプレイに映し出された、雛芥子のレントゲン写真を目の当たりにした児嶋は思わず言葉を失った。
胃のあたりに浮かび上がったその〝異物〟は、昼間に中華料理店で目撃した石沢の残骸に酷似していたのだ。
臓器の中に映し出されたそれは、明らかな歯列である。
実際、卵巣腫瘍の中に歯や髪などが詰まっている事例は少なくないのだが、胃の中にこのようなものが出現するなど聞いた試しがない
しかし、あり得ない話はこれだけに留まらなかった。
「動いて、いる……?」
児嶋の呟きに、肩を並べてディスプレイを覗き込んでいた同窓の内科医がこくりと頷く。
「随分と活きが良さそうなヤツだが、寄生虫にしちゃデカすぎるな。どうする、腹のなか一応開けとくか?」
尋ねられ、児嶋は逡巡の後に躊躇いながらも首を縦に振った。
「……ええ、お願いします」
雛芥子には自分から話をすると言って処置室を出たはいいが、しかし――このような非現実的な事象を、医者としてどう説明すれば良いのだろう。
雛芥子は刑事という職業柄、一般市民よりは何倍も肝の据わった男には違いなかったが、自身の腹中で歯列が蠢いているなどと知らされて、彼は正気を保っていられるのだろうか。
「哲、どうだった?」
待合のソファにて腰を下ろしていた雛芥子は、児嶋の姿を見つけると手にしていた雑誌を乱雑な手つきでラックへと戻し、まるで他人事のような気楽な口調でCTの診断結果を尋ねてきた。
どんな言葉で説明するべきか――。
言い淀み、児嶋は無言のまま一枚のコピー用紙を雛芥子へとただ差し出してみせる。
そこに印刷されていたものは言わずもがな、例の歯列が映し出されたレントゲン画像だった。
「ッ、んだよコレ……」
「ご覧の通りです。突然で申し訳ありませんが、今から緊急で開腹手術を受けて頂きます」
腹の中に怪物を飼っている雛芥子よりも更に青ざめた表情で、児嶋は淡々とそう告げた。
「今夜はこのまま、貴方の事を病院に預けようと思います。術後はICUに入るでしょうから、例の発作が起こってもすぐに対処してもらえるはずです」
顔色を失いながらも切羽詰まった口調で捲し立てる児嶋の姿に、どうやら反論を突き付ける気力も失くしたらしい雛芥子はふっとその口元を緩めてみせると、
「心配すんな、麻酔で眠ってりゃ食欲なんて湧かないだろうしな」
そう言って、いつもの調子でおどけながら児嶋の背を宥めるように軽く叩いた。
この状況で雛芥子から慰めを受けるなど実に情けなかったが、未曾有の事態に巻き込まれて気丈な振舞いが出来るほど修羅場を潜り抜けた経験がない。
「……明日の朝一番、様子を見に来ます」
そう言い残し、児嶋は雛芥子の身柄を病院へと預けた後、呼び止めたタクシーを自宅ではなく、石沢のアパートへと向かわせた。
昼間はこれといった情報を得る事が出来なかったが、なにか手掛かりがあるとすれば、石沢の仕事場しかない。
事は一刻を争う故、今度はどんな手段を用いてでも確実にその室内へ踏み込まねばならなかった。
「石沢さん、貴方はなにを……」
過ぎゆく景色を車内のガラス越しに眺めながら、児嶋は自らの両手をきゅっと握りしめ、空虚に問う。
食欲に飲み込まれる前、彼は何を見て、何に触れたのか。
それを紐解くことが出来なければ、恐らく雛芥子も化け物にその身を食い尽くされてしまうかもしれない――そう思うと、居ても立ってもいられなかった。