天下無双の究極遊戯

Vtuber戦国時代を斬り進む尾張の女武将

最終話、もっと食べたい

この世の者ならざる異形の怪物を目の当たりにした児嶋は、我を失った。
己の肉体を噛み砕き、やがて歯列のみとなった石沢の姿も衝撃的だったが、それを遥かに上回る恐怖――夢と現の境が消え去ってしまったかのような無秩序な様に児嶋は震え、訳も分からず未だ床に蹲ったまま、苦しげな咳を繰り返している雛芥子の身体に縋りつく。

「雛芥子さん、なにを食べたんです? ここへ来てからは何も口にはしていなかったはずなのに……!」

眼前に現れた化け物の正体をひたすら雛芥子に問い質したが、彼が己の体内から吐き出したそれが何たるかを理解しているはずもない。

「あんなもん食ったわけねェだろ!」
「でも、どうして……」

取り乱す二人の眼前で、怪物は己の巨体に見合わぬ狭い室内にわずらわしさを感じているのか、周りの家具を触手でなぎ倒し、大きく開いた口で噛み砕いたりと猛威を振るっている。
このままでは、怪物の苛立ちが児嶋たちへと向けられるのも時間の問題であった。

「……っ」

と、その時。石像を抱えた韮崎が、戸惑う二人を尻目に駆け出した。
恐らくは逃げ出すつもりなのだろう。ここで彼女の逃走を認めてしまえば、二度と真相にはたどり着けなくなる。
だが、児嶋は動けなかった。雛芥子の腕に縋りついまま、どうして、なぜと答えを求めて小さく繰り返す。

「くそっ、追いかけるぞ、哲!」

雛芥子がようやく立ち上がりながら声を荒げて呼びかけてきたものの、児嶋は相変わらず誰に問いかけるでもない疑問を何度も宙へと投げかけながら、受け止めきれない現実を否定するかの如く首を横に振り続けていた。
異形の怪物が振り回した椅子の破片が、二人の傍らに勢いよく叩きつけられ、無残にも砕け散る。続けざまにあがった邪悪な咆哮は、まるで次なる獲物を求めるかのような危険を孕んで室内中に轟き、張り詰めた空気をビリビリと大きく震わせた。
それに焦った雛芥子は自らの身体に纏わりついた児嶋の腕を強く引き上げると、強引にその膝を立たせて無遠慮に揺さぶった。

「哲、いいから立て! ここまで来ておいて、みすみすあの女を逃がすつもりなのかよっ」
「あ、あ……」
「アンタ、俺の主治医だろ? こんな状態のまま、患者を放っておくつもりかよ。冗談じゃねえ!」

語尾と同時に、児嶋は下顎を掬われる。
眼前には、刑事らしいぎらりと輝く鋭い双眸。

「最後まで、ちゃんと俺の面倒見ろよな!」
「あ……」

その眼差しに射抜かれた瞬間、まるで呪縛が解けるかのように児嶋の硬直した肉体から力が徐々に抜けていくのが分かる。

「雛芥子、さん……」

熱心な彼の呼びかけにより児嶋が正気を取り戻したのと同時、背後で化け物が再び邪悪な咆哮を高らかに上げ、その触手をでたらめに振り回し始めた。
砕け散った家具の破片が、まるで散弾銃の弾丸の如く飛び散り、児嶋の頬を掠めていく。薄い皮膚の上に走った一筋の鋭い痛みが切創によるものだと自覚出来たのは、数拍の間を置いた後だった。

「あのバケモノは俺が引き付けておくから、哲は逃げた女を追ってくれ」

そんな雛芥子の提案に呼応するかの如く、周辺の家具を破壊しつくした怪物の身体が、ぐるりとこちらを向くのが分かった。

「引き付けておくって……。大丈夫なんですか?」
「ああ? だったら代わりにお前がコイツの相手してくれるのかよ。無理だろうが」

恐らく対話は不可能であろう怪物の足止めなど、自分に出来るはずもない。かと言って、武術の心得があるとはいえ一介の刑事である雛芥子が立ち向かえるような代物ではないのだが――ここは、彼の言葉に従うしかなさそうだ。

「わ、わかりました……。雛芥子さん、くれぐれもお気をつけて」
「どう気を付ければいいのか見当もつかねえけど……。ま、やるだけやってみるさ」

頷き合い、互いの意思を確かめ合ったその直後、児嶋はよろめきながらも全速力で駆け出した。
玄関の扉を潜り、廊下へ飛び出してみると、像を抱えた韮崎が驚愕と慄きの表情を浮かべ、背後の児嶋を振り返る。

「待ってください! このまま貴女を逃がすわけにはいかないんです」

すると彼女はあろうことか、

「……!」

エレベーターの扉を開けるでもなく、階段を駆け下りるでもなく、像をその胸に抱きながら手すりを乗り越え、建物から地上へと飛び降りてしまったのだ。

「韮崎さ……ッ」

ぐしゃりと、肉の潰れる音が階上にいるはずの児嶋の耳にまで生々しく届く。
手すりから身を乗り出し地上を確かめてみると、あらぬ方向にぐしゃりと曲がり、ほとんど肉塊と化した右足を引きずる韮崎の姿を確認することが出来た。
あのような姿になっても尚、像を手放すことなく逃走を試みるとは、凄まじい執念である。
要するにそれだけあの不気味な石像は彼女にとって大事なもので、一連の事件を引き起こした重大な証拠ということだろう。
児嶋はその足を縺れさせながらも階段を駆け下りると、未だ逃走を続ける彼女の姿を追いかける。
片足を失ったもの同然である韮崎に追いつくのは、容易であった。
児嶋は背後からふらつく女の肩を掴むと引き止めるや否や、その腕から石沢の命を奪った元凶と思しき石像をひったくる。

「これが、この石像が……っ」
「やめて!」

韮崎は金切り声をあげながら像へと再度手を伸ばしたが、児嶋はそれを許さなかった。
抱え上げたそれを振りかぶり、アスファルト上へと強く叩きつける。
鈍い音を立てて、それは形を失った。

「あああ!」

緊迫した状況に似つかわしくない青天の下、響き渡るは女の絶叫と怪物の像が砕け散る音。瞬間、児嶋の視界はぐにゃりと歪み、そのまま世界が溶けていく。
空が落ち、地表は融解する。あまりの光景に瞬きを幾度か繰り返しているうち、やがて目の前の景色はまったく別の物へと塗り替わっていた。
そこは、様々な白骨が敷き詰められた暗い洞窟の中である。
どこからか聞こえてくる「ウガア・クトゥン・ユフ」という祈祷の声。そしてそれに包まれながら児嶋の眼前に横たわっていたのは例の怪物――韮崎が決して手放すまいと抱きかかえていた像と同じ姿を模したヒキガエルのような生物の姿があった。
力なく横たわりながらも肉塊をただ貪り続ける、不気味な光景。
児嶋は叫び声をあげようとしたが、しかし、声がまったく出せない事に気づく。
声帯を取り上げられてしまったかのように、呻き声ひとつ絞り出すことが出来ないまま、ただ唖然と目の前の怪物の食事風景をただ眺めている事しか叶わない。
怪物は、恐らく児嶋の姿をじっと眺めていた。その物憂げな視線は、一体なにを訴えかけているのか。もしや、児嶋の肉体をも食らおうと算段しているのではないか、と。
しかし、そのうちに怪物はまるで児嶋の姿を眺める事に飽いてしまったのか、ふいとその目を逸らすと、どこからか摘まみ上げた裸の女性をその口の中へゆっくりと運んだ。
ごくりとひと呑みされてしまった女の姿には、見覚えがある。
――あれは、韮崎だ。韮崎が、食われてしまったのだ。




「ああああああッ」

凄まじい悲鳴と共に、溶けて無くなったはずの世界が再び姿を取り戻していく。
歩道の真ん中で、韮崎が叫んでいた。
どうしてだか彼女の腹は大きく膨れていくのに、ぴんと伸ばされた手足は枯れ枝のように細く頼りなく肉が縮んでいる。
まるで内側からその生命を食らわれているかのような光景に、児嶋は先ほどの白昼夢――韮崎がヒキガエルを模した怪物に呑み込まれる様を思い出す。
いま、彼女の全身から迸っているのは「飢餓」だ。
石沢や雛芥子を襲ったそれよりも、もっと強烈な飢餓感が、韮崎の全身を蝕んでいる。

「あ……」

そしてそんな彼女の飢餓に誘われるようにして、マンション内にて荒れ狂っていたはずの漆黒の怪物がどこからともなく姿を現し、韮崎の方へと這いずっていくではないか。

「ウガア・クトゥン・ユフ!」

大きく両手を広げ、そう叫んだ彼女は――信じられないことに、アスファルト上でのたうち回るその怪物を、凄まじい勢いで食らい始めたのだ。
あれほど猛威を振るっていたはずの怪物はというと、どうしてだか今は大人しくその鳴りを潜め、特に抵抗の意志を見せることもないまま、ただ韮崎にその肉体を投げ出している。
児嶋が唖然とした表情のまま、瞬きを何度か繰り返している間に韮崎は怪物を食べつくし、その腹をより一層大きく膨らませた。
だが、その顔や手から更に脂肪がこそげ落ちていき、彼女はやがて老婆のようにやせ細っていった。
あれだけの怪物を食らいつくしても尚、飢餓に取り憑かれた女はこちらを振り返ると児嶋に手を伸ばしながら、

「もっと、食べたい……」

そう言い残して、絶命した。

「韮崎、さん……?」

時間が、ゆっくりと動き出す。
道行く人々が、アスファルト上で干からびている韮崎の姿を見つけるや否や悲鳴をあげ、口々に何かを叫んでいた。

「哲、大丈夫か!」

あっという間に出来た人だかりを掻き分けて姿を現したのは、どうやら無事だったらしい雛芥子の姿である。

「雛芥子さん、韮崎さんが……」

落とした視線の先には、飢えた女の亡骸が一つ。

「……死んだのか」

やせ細った手足と、膨れ上がった下腹。恐らくは餓死であろうが、詳細は司法解剖でも施してみなければ分からないだろう。

「雛芥子さん、お任せしても良いですか」

もはや、児嶋に出来る事など何もなかった。
事情聴取くらいはされるだろうが、果たしてどこまで警察側が児嶋の言い分を信じるだろうか。否、事の顛末を子細に語る必要などないのかもしれない。

「……ま、哲のお陰で腹の悪いモンも出たしな。任されてやるよ」

騒然となる現場にやがて数台のパトカー、そして一台の救急車が到着し、不可解な状況であるというのに彼らは実に手際よく韮崎の死体を含めた事件の名残を、あっという間にその場から浚い、片づけていく。
急速に日常が取り戻されていく様に眩暈を覚えながらも、児嶋はパトカーに乗り込む直前、他の捜査員に事情を説明しているらしい雛芥子の方を振り返る。

「雛芥子さん、お礼に今度、中華を御馳走させてください」

すると雛芥子はやれやれと苦笑を零しながら、小さく首を横に振った。

「まったく、無神経な野郎だな。当分、中華なんて食えるかよ」

指摘され、ようやく児嶋は理解する。
事件の発端となったのは中華料理店だ。確かにこの提案は、聊か配慮に欠けていたと肩を竦め、児嶋は思わず口を噤んでしまう。
そんな児嶋の落胆がよほど可笑しかったのだろう、雛芥子はこみ上げる笑いを堪えるように肩を揺らしたその後、伸ばした指先で児嶋のこめかみを小突き、その口元をほんの僅か、悪戯っぽく歪めてみせた。

「忘れたのかよ」
「……え?」
「俺が食べたいのは手羽餃子だって言ったろ」
「ああ……。そういえば、そうでしたね」

では、近いうちに必ず手羽餃子を御馳走する。
そう言い残し、児嶋は付き添いの警官に促されるまま、パトカーへと乗り込んだ。



司法解剖の結果、韮崎の死因は「餓死」と断定された為、事件性はないと警察側からは発表された。
その壮絶な死にざまとは裏腹に、彼女の最期は新聞の三面記事へと小さく掲載されるに留まり、一連の騒動は実に後味悪く、尻すぼみな結末を迎えたのである。
悪夢からようやく目覚めたかの如く、すべては霧散し、なんの変哲もない日常が再びゆっくりと流れ始めた。
だが、児嶋は未だ時折思い出してしまうのだ。

「もっと、食べたい」

そう呟いた石沢や、韮崎の切実なる声と、歪んだ時空に突如姿を現した例の怪物がこちらに向けていた虚ろで邪悪な双眸を。
そして、いつの日か再び平穏な日々へと陰が忍び寄るのではないかという、言い知れぬ恐怖と、不吉な予感。
それらが現実のものとなり、再び襲い掛かる日はそう遠くないということを、児嶋はその肌で薄っすらと感じていた。

第9話