天下無双の究極遊戯

Vtuber戦国時代を斬り進む尾張の女武将

九、ビロードの闇

「雛芥子様ですね、お待ちしておりましたわ。どうぞ上がっていらしてください」

翌日、指定されたマンション内のとある一室で児嶋たちを迎え入れてくれたのは、物腰穏やかな妙齢の女性だった。

「あら、お二人でいらっしゃるとは思いませんでしたわ」

口調は柔らかいままではあったが、長身の男がふたり肩を並べて扉の中へ割り入ってきた光景に驚いたらしい韮崎はその瞳を丸め、困惑したように眉尻を下げてみせる。
戸惑うのも無理はない。児嶋は昨夜、雛芥子の名を一方的に騙って予約を入れてしまったのだ。彼女が把握していたのは彼の氏名のみだったのである。

「申し遅れました、私は雛芥子さんの主治医である児嶋と申します。本日は彼の付き添いとして同行させて頂きました」

名刺を取り出し身分を明かしたところ、女の表情は合点がいったように幾分か和らいだ。
児嶋が精神科医だと名乗ることで何か不都合が生じるだろうかと危惧していたのだが、どうやら取り越し苦労だったらしい。
医者を目の前にしても動揺を示さないという事は、よほど摂食障害の治療に自信を持っているのか、それとも何か別の事情ないし勝算があるのか――定かではなかったが、油断しない方が良いだろう。

「あら、そうでしたの。でしたらどうぞ、一緒にお上がりくださいませ」

微笑む韮崎に導かれるまま、児嶋たちはまんまと部屋へ上がりこむことに成功した。
まず通されたのは、少し広めのダイニングである。
そこには応接セットらしき背の低いテーブルと、四人掛けの椅子が用意されていた。
机上に置かれていたのは、白磁ティーセット、それに紫色のビロード布である。

「……?」

恐らくビロードの中には何かが置かれているのだろう。その中身を覆い隠すように布が大きく膨らんでおり、いかにも怪しげな雰囲気を醸し出している。
そして更に、不審な点を児嶋は視線の先で見つけてしまった。
応接セットの向こう側、キッチンの流し台近くに蓋の空いた段ボールが置かれていたのだ。
その中には驚くことに、二匹の兎の姿が見える。萎びた野菜の葉と共に入れられたそれは、まともな世話を受けていないらしい事が窺えた。
不気味ささえ漂うその異様な光景に、どうやら雛芥子も気が付いたらしい。
刑事らしく警戒心を露わにした厳しい表情で辺りを窺いながら、恐る恐るといった様子で応接用の椅子に腰を下ろしている。

「宜しかったら、お召し上がりくださいね」

ほどなくして韮崎はテーブルへと白磁ティーポット、それとケーキの乗せられた皿を運んできたのだが、

「雛芥子さん、駄目ですよ」

児嶋は反射的にケーキへと手を伸ばしかけた雛芥子を咎め、皿ごとそれを取り上げた。
今しがた浮かべていた険しい表情はどこへやら、無防備にも与えられたケーキを口にするなど言語道断である。
もしかすると雛芥子の意志とは関係なく、腹に巣食った例の怪物が彼を衝動的に動かしたのかもしれないが、どちらにせよ、今の雛芥子に流動食以外の物を与える訳にはいかないのだ。

「……いいだろォ、ひと口ぐらい」

そう言って雛芥子は唇を尖らせたが、児嶋は皿を取り上げたまま我慢しろと一蹴する。
どうも食べ物を前にすると、彼は聞き分けが悪くなるらしい。
目の前の女はそれを分かっていて、ケーキなど差し出したのだろうかと児嶋が眉を顰めると、件のカウンセラー、韮崎は愉快げに肩を揺らしながらテーブル越しにそっと雛芥子の表情を覗き込んだ。

「大丈夫ですよ、カウンセリングを受ければすぐによくなりますから」

穏やかに紡がれたその言葉は、まるで洗脳の呪文のように鼓膜へと染み入る。
今のところ、摂食障害の症状が出ていない児嶋が耳にしてもそのような印象を受けるのだから、きっと雛芥子にとっては蠱惑的に聞こえただろう。
児嶋は昨夜の忠告を彼に思い出させるべく、テーブルの下で彼が纏ったシャツの裾を密かに軽く引くと、分かっていると言わんばかりの視線がこちらへと向けられた。

「あなたにはどんな症状が出ているのかしら?」
「急に食べ物じゃないもンや、自分の血ですら食べたくなるンですよねェ」
「なるほど、それは過食症ね。見境がないのは確かに重症ですわ」

そんな二人の問答に児嶋は医師らしく、

「どうやら胃の辺りも調子を悪くしているようで、発作的に激しい腹痛などもしばしば起こっています」

などと付け加えてみせたのだが、韮崎の返答はというと実に胡散臭いものであった。

「あらあら、それは大変でしたわね。でも、このカウンセリングで必ず良くなりますわ。食事がいらないくらいにね」

そんな彼女の宣言に、児嶋は確信する。
彼女には、医学的知識が何もないのだ、と。
特異な体質を持つ人間は多々存在するが、食事を摂らずに生きていける人間は、恐らく一人もいない。
点滴処置でもしていれば話は別だが、食事の経口摂取は生きていく上で恐らく一番大事な作業である。
光合成を行う植物でもない限り、物を食べずに生きるなど不可能に近い。
医師として、それをずばり指摘するべきか否か、児嶋がしばし逡巡していると、異変は起こった。

「……っ……?」

一体、なにが起こっているというのだろう。
しきりに両手を動かしながら熱弁する韮崎の声を聴いているうち、頭に靄が掛かっていくような、不穏な感覚に包まれたのだ。
慌てて隣の雛芥子に視線をやると、どうやら彼の方は児嶋よりも重症だったらしい。その目はいつの間にか虚ろに溶け、もはや韮崎の言葉など届いていない様子である。

「雛芥子さ……!」

気を確かに持てと叱咤するべく児嶋が口を開いた、その時だった。

「……」

彼はふいにその場から立ち上がると、テーブルに置かれていた銀のフォークを鷲掴み、なにやらキッチンの方へと歩いて行ってしまった。

「雛芥子さん!」

どうやら彼はまた、自我を失っているようだった。
なにやら嫌な予感がする。そう直感した児嶋も席を立ち上がると、慌てて雛芥子の背中を追いかけようと足を踏み出したのだが――遅かった。

「……!」

彼が向かった先は、段ボールの置かれた流し台である。
あろうことか雛芥子は振りかざしたフォークをその段ボールの中、弱々しく震える兎の小さな体へと突き立ててみせたのだ。

「あ……!」

だがその後、更に驚くべき事象と遭遇する。
兎の体から噴き出した鮮血が、物理の法則をまるで無視した不可思議な軌跡を描きながら、応接テーブルの上に置かれたビロード布の中へと吸い込まれていったのだ。

「一体これはどういう事ですか、韮崎さん。そのビロードにどんな仕掛けが……!」

あまりの出来事に児嶋は思わず声を荒げ、戸惑いの表情を浮かべたまま動けずにいる韮崎へときつく詰め寄った。

「それにあのウサギも……。あなたは一体、ここで何をしてるんです」

すべての秘密は、あのビロードの下に恐らくは隠されているのだろう。
まずはそれを取り上げてしまうべきかと児嶋はテーブル上のそれに手を伸ばしかけたのだが、

「ちょっと、雛芥子さん!」

まるでそれを遮るかの如く、雛芥子が背後から児嶋へと組みつき、その動きを封じてしまった。
逞しい腕が児嶋の細い首へと絡みつき、ぎりぎりとそこを容赦なく締め上げていく。
持てるだけの力を振り絞りもがいてはみたものの、彼は児嶋よりも背丈が高いだけでなく、体格も一回り以上は大きい。腕の中から自力で抜け出せる可能性は、万に一つもないだろう。

「雛芥子、さん……!」

自我を失っている彼に、果たして児嶋の声が届くかどうかは分からない。だが、しかし。力で敵わないとなれば、言葉で説得するしかないだろう。
児嶋は身じろぎする事でどうにか声を振り絞れるだけの気道を確保すると、ほとんど自棄のように大きく叫んだ。

「雛芥子さん、手羽餃子食べるんでしょう。僕の邪魔をこのまま続けるならずっと流動食生活ですよ!」

命乞いにしては随分の間の抜けた文言であったが、他に適切な言葉が今の児嶋には絞り出すことが出来なかった。
――が、予想外に効果は覿面だったらしい。
締め付ける腕の力がふと緩み、児嶋はどうにか雛芥子の腕の中から逃れる事に成功した。
ほとんど倒れ込むようにして床に膝を折ったその瞬間、

「やめて……!」

自身の体を支えるべく突き出した右手が、意図せず机上のビロードを薙いだ。
その様を目の前で目撃した韮崎は我を失い、慌てて身を乗り出しながら悲鳴を上げたが、もう遅い。
はらりと滑り落ちた布の中から現れたもの。
それは、ざらりとした黄土色の砂岩を固めて彫り上げたらしい、石像であった。
コウモリとヒキガエルを足したような、醜悪な生物。

「あ……」

それは確か、石沢宅のダストボックスから発見した紙片に描かれていたものと同じ怪物だった。
と、その時である。
石像が児嶋たちの目前に晒されたのとほとんど同時に、今度は雛芥子の膝がガクリと折れた。

「……ッ、かは……!」

一体、自分は何を目撃しているのか。
児嶋はそれを現実の光景と信じる事が出来ず、彼の隣に頽れたまま、震えながらその目を見開いていた。
四つ這いとなり項垂れる雛芥子の口から、漆黒の液体が大量に吐き出されたのだ。
悪臭を放ちながらとめどなく溢れ零れるそれは黒曜石のような光沢をもち、やがて意思を持っているかの如く不気味な形状を象りながら大きく育っていく。
それはやがて下腹部に何本もの足を生やした巨大な口を持つ異形の怪物へと姿を変えて、児嶋たちの眼前へと立ち塞がったのであった。

第8話最終話