天下無双の究極遊戯

Vtuber戦国時代を斬り進む尾張の女武将

一、消えた男

ビジネスホテルや多種多様な飲食店が立ち並ぶ繁華街の一角、とある中華料理店の入り口にて、児嶋哲はまるでそこに根を張った大木のように無機質に、そして静かに直立していた。
昼時ということもあり、ちょうど真上から力強い日差しが降り注いでいたものの、児嶋はそんな初夏の気候に目を細める事も汗ばんだ様子もなく、刻限と知人たちの到着をただひたすらに待ち続けている。
人付き合いの得意な方ではなかったが、医者という職業故に様々な人間と出会う機会が多い為、その無口さと相反し、児嶋には知人が実に多い。
会食の誘いも絶えず、時には休日の早朝からゴルフだなんだと付き合わされる機会もあり、行動履歴だけを辿ってみると、アクティブな人間と捉えられてしまうかもしれないが――実のところ、特別な理由がない限り断りの文句を咄嗟に口にする事が出来ない性分ゆえ、ほとんどの誘いに応じてしまっているというだけなのだ。
今日も誘われるがままに会食へと繰り出してきてしまったが、顔色を頻繁に窺わなければならない同業者たち以外の、気楽な集まりであるという事が唯一の救いだろうか。

「児嶋さん、早いですね! 僕が一番かと思ったんですが」

と、その時である。刻限にはまだ幾分か余裕のある時間帯にも関わらず、一人目の待ち人が児嶋の眼前へと姿を現した。
表情の懲り固まったこちらとは対照的に、人好きのする柔和で明るい笑顔をその顔に浮かべた彼は、石沢というフリーのジャーナリストだ。
とある事件を起こした容疑者の心理状態について取材を受けた事を切っ掛けに知り合い、たびたび精神科医として彼に意見する機会が増えていったのだが、曰く本日の会食は〝日頃の礼〟という名目らしい。

「今日こそは児嶋さんより先に着こうと早めに出てきたのになあ。だいぶ待たせちゃいましたか?」
「……いえ、僕も先ほど到着したばかりですから」

左上の時計に視線を落とすと、時刻は午後十一時五十六分。約束の時間まで残り四分をきっていた。

「あとは雛芥子さんだけですねえ。もうちょっと待ちましょうか」
「ええ」

残る一人は、恐らく遅れてくるだろう。
そんな児嶋の見立て通り、正午を五分ほど過ぎてからようやくその男はふらふらと気ままな足取りで姿を現し、特に悪びれた様子もなくヘラリと実に軽薄そうな笑みを浮かべてぼさついた自身の後ろ髪を掻きながら大きな口を開いた。

「おォ、待たせたな」

児嶋よりも更に高身長であるその男の名は、雛芥子桔一。
少々、だらしのない見た目と言動に反して職業は公務員――警視庁勤めのれっきとした警察官だ。
精神科医という職業柄、重大な事件の容疑者たちと接見する機会の多い児嶋は警視庁にもなかなか顔が広い方なのだが、勤務外のプライベートでも顔を合わせる刑事といったら、この雛芥子くらいである。
何がきっかけでまず顔を合わせたのかは思い出す事が出来なかったが、どうしてだか彼は児嶋をファーストネームで呼び、今回のように共通の知人を介して食事へと赴いたり、気まぐれに連絡を寄こしては居酒屋ないし定食屋にて一方的に近況報告を聞かせてみたりと、顔を合わせる機会が多かった。

「相変わらず表情が懲り固まってんなァ、センセ」

小さく肩を揺らしながら笑う雛芥子の表情は、年齢の割に屈託がなく、同時に真意が掴みにくい。
意図的にそうしているのかどうかは定かではなかったが、のらりくらりとした態度で本音をそう簡単には悟らせまいと振る舞っている理由は、やはり警察官という仕事が起因しているのだろうか。

「さて、ようやく揃った事ですし……。そろそろ中に入りましょう」

手の甲でこめかみを伝う汗を拭いつつ、石沢が自身の腹をさすりながら笑顔で促す。

「お二人に御馳走する立場ですけど、もうお腹ぺこぺこで」

軒先から既に漂う中華独特の食欲をそそる香りにあてられたのか、発した言葉通り石沢は心底空腹であるといった表情を浮かべて、こちらの了承を確認するよりも早く入口の扉に手を伸ばした。

「ああ、すみません。では雛芥子さん、我々も店に入りましょう」
「はいはい」

既に店内へと消えた石沢の背中を追いかけ、児嶋と雛芥子も後に続いて重いガラス扉を押し開く。
途端、更に色濃く漂う熱した食材と調味料の脂っこい香り。
それほど食に執着があるわけでもない児嶋ですら誘われるほどの香ばしさに、さすがは世界三大料理に数えられる中華だと今更ながら感心を覚えつつ、ようやく三人は店内へと足を踏み入れたのであった。



案内されたそこは、他の客や店員たちの横やりが届かない七畳半ほどの個室で、中央には肌触りのよさそうな白いテーブルクロスの敷かれた中華料理店ならではの円卓が鎮座している。

「なんだよ、わざわざ個室なんて取ったのか?」

円卓の前に腰を下ろしながら、雛芥子が室内を見回しつつ驚きの声をあげた。

「飯だけ食わせてくれりゃ俺は満足だぞ。キャバクラの同伴や政治家の密談じゃあるまい、そんな気合い入れなくても……」

確かに雛芥子の言う通り、日頃の礼という名目にしては随分と豪勢過ぎる昼食会場だと児嶋も室内に視線を巡らせる。
メディアでもよく取り上げられるらしいこの高級中華料理店は、それこそ先ほど雛芥子が口にしたような水商売関係者や政治家たちの会食に多く利用されている事だろう。
胡弓の調べが薄く流れる以外に物音が届かない、壁の厚い個室は彼らにとって何かと都合が良いからだ。
しかし、生憎と自分たちには人目を避けなければならないような話題もない。

「あの、石沢さん……」

さすがにこのような状況で馳走になるのは申し訳がないと、児嶋は隣席の石沢へ恐る恐る視線を送ったのだが、当の本人は相変わらず明るい笑顔を浮かべたまま、意に介した様子もない。

「遠慮しなくて大丈夫ですよ。そりゃあ、お医者さんである児嶋さんに比べたら稼ぎは少ないからもしれませんが、僕だって一応は社会人ですからね」
「おい、俺は薄給だって思ってんのか」

石沢の軽口をどう解釈したのか、雛芥子が眉を顰めて不機嫌そうに呟いてみせる。
どうやら今のやり取りでへそを曲げてしまったらしい彼は早々に店員を呼びつけ、こちらの了承を得ることなく次々と注文を始めたのだが、その光景を目の当たりにしても石沢は特に気にした素振りは見せない。
が、しかし。ふと彼は児嶋の方へと身を寄せ、店員とやり取りを続けている雛芥子には届かないようにと配慮した囁き声で、こんな言葉を投げかけてきた。

「そういえば、児嶋さん。すみませんが後でご相談に乗っていただいたいことがありまして……」

食事の後にでも、と付け足しながら、石沢は薄く微笑む。

「……はい、僕でよろしければ」
「ありがとうございます。児嶋さんのほうがこの件はお詳しいですから」

児嶋が詳しい分野となると、やはりメンタルヘルス関連の話題だろうか。
だが、目の前の石沢が精神を病んでいる様子は見受けられない。という事は、いつもの如く何かしらの取材に纏わる話なのだろう。
わざわざ個室を選んだのも、もしかするとその相談事が理由なのかもしれないと考えを巡らせつつ、とりあえずは折角の食事を楽しむべきだと正面へと向き直り、静かに料理の到着を待つ。
ほどなくして運ばれてきたのは、前菜の盛り合わせにエビのチリソース和え、北京ダックに水餃子、麻婆豆腐など、実に中華料理店らしい料理の数々であった。
品数は多かったものの、量で考えるならばそれほど膨大というわけでもない。
どうやら雛芥子はへそを曲げた素振りを見せてはいたものの、石沢に負担をかけるような真似は初めからするつもりはなかったのだろう、実に常識的な注文内容だと思わず微苦笑を浮かべてしまう。
警察官らしく目ざとい彼はそんな児嶋の浮かべた表情を見つけるや否や再びムッと顔を顰めたが、それは恐らく、いや確実に、照れ隠しに違いない。
そんな和やか、とは言い難いながらも実に気楽な雰囲気の中で食事が続いていたのだが、締めの五目炒飯をそろそろ食べきるといったタイミングで何を思ったのか、石沢が店員を呼びつけて新たに追加注文を始めてしまった。

「ええと、酢豚にフカヒレスープ、それから小籠包と、あとはそうだな……。焼き餃子を二人前お願いします」

フルコース一人分に匹敵しかねないその注文内容に、児嶋だけではなく雛芥子も相当驚いたようである。
正直なところ、既に児嶋は満腹に達しており追加注文分を腹には収められそうもない。恐らくそれは雛芥子も、そして石沢も同じはずだった。

「石沢さん、他にも誰かこの席に今からいらっしゃるのでしょうか? 随分な量の料理を追加したようですが……」

わざわざフルコース一食分に値する量を注文し直したということは、もしかすると遅れて何者かがもう一人この場に現れるのだろうかと児嶋は尋ねてみたものの、当の石沢は首を横に振り、これは自分で食べる分だと笑顔を浮かべたまま言い切ってみせた。

「これぐらいだったら、食べきれるかなあと」
「いや、食いすぎだろ……」

石沢の返答を耳にした雛芥子は、既に胃がもたれ始めているのか、うんざりとした様子で眉根を寄せている。
はて、石沢とは何度か食事を共にしたが、これほどまでに大食だったろうかと児嶋も思わず眉を顰め、一体どうしてしまったのかと怪訝な表情を浮かべてしまう。
――なにかが、おかしい。
長年培ってきた精神科医としての経験が、脳内で警鐘を鳴らし始める。
同じく、異常心理を持つ容疑者たちと多く対峙してきた雛芥子も彼の異変に気が付いたらしい。
不機嫌そうな表情を徐々に強張らせ、一見は普段と変わらぬ柔和な笑顔を浮かべたままでいる石沢の顔をただ静かに見据えていた。

「お二人とも、すみません。急いで食べてしまうので、少し待っててくださいね」

ほどなくして運ばれてきた料理をぱくぱくと、半ば口内へ放り込むように次々と彼は平らげていく。
食材の味など微塵も味わっていないようなスピードで、やがては咀嚼すらまともにせず飲み込むように次々と――石沢は食事の手を緩めなかった。

「石沢さん……!」

彼は、正気を失っている。
ここは力づくでも止めるべきかと児嶋が席を立とうとしたその時、

「待て、なにか聞こえないか」

雛芥子がこちらの行動を制するように声をあげた為、いったい何事かと再び椅子へと腰を下ろし、児嶋も耳を澄ませてみる。
すると、雛芥子の指摘した通り、ぼりぼりと硬いものを噛み砕くような音がどこからか聞こえてきている事に気が付いた。
だが、石沢がいま口にしている食べ物は小籠包と焼き餃子である。
皿ごと噛み砕いていない限り、そのような音がするはずもない。
では、どこから聞こえてくるのか――。

「足元……?」

どうやらそれは、テーブルの下から聞こえてきているらしい事に気が付いた。
児嶋は手を伸ばし、さらりとした触り心地のクロスをそっと捲りあげてみる。

「……!」

目の当たりにしたその光景を、児嶋は信じることが出来なかった。
だが、それは現実のものとして襲い掛かり、心を掻き乱していく。
石沢の足が、消えていた。
否、体の内側へとめり込むように、砕かれながら飲み込まれている。

「石沢さん……ッ」

ほとんど悲鳴のような声で石沢の名を呼びながら、児嶋は反射的にテーブルから飛び退いてしまった。
やがて足を失った彼は残った腕で円卓へとしがみつき、食器を使う事さえ忘れて今度は酢豚を夢中になって貪っている。
その食事風景は獣のような、否――獣の方がまだ、幾分か行儀が良かっただろう。
半身を失いながらも皿に顔を埋め、がつがつと肉を食らう石沢の様相は得体のしれない怪物のようであった。

「あ、あ……」

やがて石沢は食事を収めているはずの腹を失くし、鼓動が脈打つ胸をも失くし、咀嚼したものを呑み込む喉さえ失くして、最後にはむき出しの歯列と味覚を確かめる為の舌のみが円卓の上にごろりと不気味な音をたてながら転がった。
ただの肉塊となったそれはしばらく未練がましそうにぱくぱくと開閉するような動きを繰り返した後、

「もっと、食べたい」

唸るような声でそう漏らした後、唖然とした表情を浮かべて椅子に腰かけたまま動けなくなっている雛芥子の元へ飛び掛かった。

「雛芥子さん!」

まさか、今度は人間を食らうつもりかと思わず児嶋は声をあげたのだが、それは雛芥子の元へ辿り着く直前、煙のように姿を消してしまった。

「これは……」

相変わらず個室内は胡弓の奏でる心地よい音色で満たされていたが、それが何の慰めにもならないほどの虚無と絶望が児嶋と雛芥子の全身を包み、心身を激しく震わせている。

「なにが、起きた……?」

ようやく零れた雛芥子の呟きは、彼らしくもなく頼りなげに掠れ、動揺が強く滲むものだった。

「これだけ残して消えちまった……」

そう言って彼が床から拾い上げたのは、恐らく石沢が所持していたのだろう、使い込まれた革の長財布である。
両脚が砕かれながら体の内側へと呑み込まれる直前、ジーンズから零れ落ちたのだろうか。
児嶋も改めて床に膝をつき、円卓の下を覗いてはみたのだが石沢がそこに存在していたという痕跡は見つけられず、あまりの出来事にそのまま座り込んでしまう。

「……哲、大丈夫か。まあ、あんなモン見ちまったんだから大丈夫なワケないだろうけど」

情けがないことに、どうやら腰が抜けてしまったらしい。
自力で立ち上がることが出来なくなっていた児嶋の元に駆け寄ってきた彼の腕へと半ば倒れ込みながら、まずは体の震えを止めようと平静を取り戻す事に努めてみる。
だが、一向に慄きは全身へと纏わりついたまま離れない。
言葉を発する事さえ忘れ、しばらく児嶋はただ震えていたのだが、なにかを思い出したのか、こちらの身体を抱きとめたまま雛芥子がふと顔を上げ、呟くように尋ねてくる。

「あいつ、最後に何か言っていなかったか」

あいつとは、肉塊となってしまった石沢のことだろうか。

「もっと、食べたい――。そう言っていました」

ようやく絞り出す事の出来た声でそう返答したのだが、

「違う、その後だ」

雛芥子は首を振り、児嶋の顔を覗き込みながら呪文のような言葉を口にした。

「ウガ……クトゥ、なんとか、って」

生憎と、児嶋には聞き覚えがなかった。動揺のあまり聞き逃していたのか、はたまた雛芥子にのみ聞き取る事の出来た言葉だったのか。

「彼は何かを伝えようとしていたのでしょうか……」
「まァそうだったとして、もう伝える口もねェな」

言いながら雛芥子はつい先ほどまで石沢が座っていたはずの席へと視線を投げ、改めて空虚と化したその場所を呆然と眺めながら忌々しげに舌を打つ。

「こんな珍妙な事件、警察じゃ扱えねェぞ……。痕跡があるならともかく、一人の人間がすっかり消えちまったンじゃな」

石沢はどこへ消えたのか。そもそも、彼は生きているのか、それとも死んでしまったのだろうか。

「……とりあえず店を出ましょう。場所を変えて、状況を整理したいのですがお時間ありますか?」

徐々にではあるが気力を取り戻した児嶋は雛芥子に支えられながらようやく立ち上がると、まずは冷静に、そして正確に、現状を把握するべきだと提案を持ちかける。

「……そうだな、そうするか」

事件として扱えない案件とはいえ、さすがの雛芥子もこのまま姿を消した石沢を放っておくことが出来なかったのだろう。こちらの提案を了承すると、唯一の残留物である長財布を自身の懐へとしまい込んだ。
果たしてそこに手掛かりは残されているのかどうか。定かではなかったが、調べてみるよりほかはない。

「会計は僕がしておきます。雛芥子さんは彼の財布をそのまま持っていてください」

今日は石沢が食事代を持つ約束ではあったものの、さすがに姿を消した彼の財布から支払いを行うのは気が引けたし、可能性は薄いが所持している金銭になんらかの痕跡が残されていないとも限らない。

「ああ、わかった」

両脚は未だ震えていたものの、児嶋はなんとか己の心を奮い立たせると雛芥子の腕の中からようやく離れ、まずは会計を済ませるべく、よろよろとした足取りで会計口へと向かったのであった。

第2話