天下無双の究極遊戯

Vtuber戦国時代を斬り進む尾張の女武将

新人クロスバイカー奮闘記 - 関ヶ原の合戦編 -【4】

史跡巡りレポートの続きを御覧下さい。

大谷吉継

関ヶ原の戦いにて命を落とした武将、御存知大谷吉継のお墓です。
前回紹介した戦国ロードの途中に入口があるのですが……肝心のお墓は山の中を長いこと歩かなければ辿り着けません。ちょっとした山登りです。

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こんな感じの場所を頑張って歩きます。
自転車を5時間こいだ後でこの仕打ちはあんまりだw

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小早川秀秋らが寝返り、大谷吉継隊は壊滅。最期を悟った吉継は「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い残し、家臣の湯浅五助介錯を受け藤川台で自刃した。

戦場を離れ吉継の首を隠した五助は、直後に出くわした藤堂高虎の甥・高刑へ「主君の首の在処を秘して欲しい」と頼み、自らの首を差し出す。高刑はその約束を守り、徳川家康の詰問にも頑として首の在処を言わなかったという。吉継の墓は、その藤堂家によって建立された。

大正5(1916)年には、湯浅家の手により吉継の墓に寄り添うように五助の墓も建立された。

※現地の案内看板文章より転載


大谷吉継陣跡

お墓から更に山道を登ると、陣跡や眺望地に辿り着きます。

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大谷吉継は慶長5(1600)年9月3日に山中村へ布陣した。
ここは要害の地で、東山道(中山道)を見下ろせ、松尾山を正面に望むため、東軍の近江侵攻や、小早川秀秋の抑えにもなる。

吉継は秀秋の不穏な動きを警戒し備えた。その痕跡として塹壕状の横堀が東西に今も残っている。病を得ていた吉継は、馬にも乗れず輿に乗って後方から部隊を指揮したという。
開戦後は藤堂高虎京極高知らを相手に戦った。

正午頃に秀秋が寝返ると、これを予想していた吉継は、予て備えていた一隊で迎え撃ち、兵力で圧倒する小早川隊の攻撃を跳ね返して松尾山へ押し戻すほどの働きを見せる。
しかし、直後に脇坂安治らも寝返ったため、吉継は敗北を悟る。

三方から攻められた大谷隊は衆寡敵せず壊滅した。

※現地の案内看板文章より転載


松尾山眺望地

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正面一・五キロ先に望む標高二九三米の山が松尾山である。
関ヶ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。

当時の遺構がほぼそのままで残っており、山頂に軍旗が翻っているのが確認できる。
吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約二千の兵を率いて下方山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていた。

案の定秀秋の兵一万三千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。遂に総崩れとなり吉継は自刃した。

こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継の雄姿が偲ばれる。

※現地の案内看板文章より転載


iPhoneで拡大撮影したので非常に見辛いかもしれませんが、確かに案内看板の通り、山頂付近には旗らしきものが見えますね。

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しかも当時のまま色々なものが残っているとは……!
ちなみにこの松尾山も登ることが可能(しかも普通のスニーカーで行けるレベル)らしいので、次回は小早川陣営に乗り込みたいと思います。

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そして眺望地には、こんな顔嵌めパネルがありました。
なかなか険しい山中にも関わらず、そこそこ他の観光客もいたのでここに自分の顔を突っ込む勇気はなかったですw

ちなみに登山(っていうほどのモンでもないけど)中、ウォーキングのメーターをONにしておいたので、ルートや移動距離などを記録する事が出来ました。
折角なのでご覧いただきましょう。


【ウォーキング記録】
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【ルート】
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開戦地

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慶長5(1600)年、徳川家康会津征伐のためとして東下、それを好機と石田光成らは、毛利輝元を総大将に担ぎ上げ大坂で挙兵し、関ヶ原の戦いの幕が開く。

西軍は、西上する家康らを美濃・尾張国境で迎撃しようと、三成自身も大垣城に入城する。
しかし、東軍の福島正則らは、三成の予想に反し先んじて美濃に侵攻。岐阜城をはじめ西軍の諸城を次々と陥落させ、大垣城にほど近い赤坂(大垣市)に集結する。
後を追って9月14日に着陣した家康は、長期化が予想される大垣城攻めを避けるため、「東軍はそのまま大坂に西上する」という噂を流させたという。

西軍は、東軍の西上を阻止しようと雨の中、夜半に大垣城を出発。15日未明までに、最左翼の笹尾山に三成、小池村に島津義弘、天満山に小西行長宇喜多秀家が着陣。
先に布陣していた藤川台の大谷吉継や、南宮山(垂井町)の毛利秀元率いる毛利勢、松尾山の小早川秀秋と合わせ、鶴翼の陣で東軍を迎え撃とうとする。

後を追う東軍は、関ヶ原の盆地中央に進出、福島正則を先人に魚鱗の陣を形成した。
雨があがり、霧が晴れ始めた午前8時頃、東軍の松平忠吉井伊直政が抜け駆けして宇喜多隊に発砲。天下の覇権を賭けた国内最大級の戦いが、ここ関ヶ原で繰り広げられることとなった。

※現地の案内看板文章より転載


島津義弘陣跡

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島津義弘隊1千5百余は、未明までに関ヶ原へ入り、この地から北西約250メートルの薩摩池付近に陣を敷いた。二番備えとして石田光成の側面の守りと、北国街道の押さえを任される。

開戦後は、自ら攻撃に出ることはなく、自陣に近付く者は東西両軍にかかわらず打ち払う姿勢をとった。三成からは幾度も参戦を要請されたが、使者として訪れた三成の家臣・八十島助左衛門が下馬しなかったことを無礼として、激怒し追い返す。

その後、三成自身が説得に来るも、「今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候(今日の合戦は、各々が好き勝手に手柄を立てられるように戦いたい)」と呼応しない。

一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋の寝返りにより戦況は一変。東軍の猛攻に耐えきれなくなった西軍諸隊は次々に敗走する。孤立した島津隊へ東軍諸隊が迫る中、義弘は討死を覚悟するが、甥の島津豊久に説得され、撤退を決める。

西軍諸隊が背後となる西方の近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、東軍諸隊が群がる正面を突破し、伊勢街道を南方に抜ける進路をとる。
島津隊は徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃した。

※現地の案内看板文章より転載

wikiによると、関ヶ原から撤退をする際に島津義弘がとった戦法「捨て奸(島津の退き口)」が有名だそうですね。

ちなみにどんな戦法かというと、

殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる。

……という感じ。

要するに、トカゲの尻尾を少しずつ切り続けて、それがゼロになる前に安全地帯まで逃げるって事ですよね。現代人には真似出来なさそうな捨て身戦法だ……。

床几場

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関ヶ原の戦いに大勝した徳川家康は、論功行賞の判断材料とするため、この場で床几に腰掛け、味方が討ち取ってきた敵将を自ら首実検した。
実検した首や戦場の遺骸は首塚を造らせて葬られた。

関ヶ原町内には東首塚と西首塚が存在する。敵味方を問わず戦死者を弔うのは戦国時代の慣習とされ、死者への表敬の儀礼でもあった。正面中央の土壌と周囲の土塁や松は、天保12(1841)年に幕府の命を受け、この地の領主・竹中家(13代重明)が築いた。

※現地の案内看板文章より転載


「首級」という言葉の通り、当時の合戦では誰がどの首を持ってきたのかで評価が決められたようですね。

現代の営業職で例えるなら、平社員の名刺をもらってくるより大企業に勤める社長の名刺を貰ってきた人の方が評価される……みたいな感じでしょうか。

なんでも「首帳」というものがあって、ちゃんと誰が誰の首を狩ってきたのか記録する係まで居たそうな。関ヶ原の合戦では、家康自らが討ち取られてきた首を検分し、部下たちの評価を決めていたという事になります。

余談ですが、かの有名な合戦「桶狭間の戦い」では逆に「戦に勝てば全員評価してやるから雑魚の首なんぞ取るな!そんな暇ねえぞ!義元だけを確実に殺せ!」というスタンスを取っていたようですね。

自らじっくり首実検を行う家康と、奇襲を成功させるため首級を問わない信長……。面白い対比だと思います。

徳川家康最後の陣地

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戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南一キロのこの地点に進出させてました。
ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終わると、部下の取ってきた首を実検しています。

周囲の土塁や中央の高台は、天保十二年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。

※現地の案内看板文章より転載


首塚

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以上が今回見学した史跡でした~。
秋にリベンジする際は、じっくり回って全史跡制覇したいです!

さて、帰りの走行データを見てみましょう。


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行きは5時間近く掛かったというのに、帰りは3時間半でゴール!
もう人気や車通りの全くない道は馬で駆けているかの如き疾走感を纏ってひたすら走り続けましたw

ちなみにルートはコチラ。
行きは正しく計測出来ていませんでしたが、帰りはちゃんと記録しました。

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さて、関ヶ原レポをダラダラと時間掛けて書いている間に季節はすっかりと夏。
サイクリングするには不向きな気候となってしまいました。

通勤も含め、自転車での長距離移動は涼しくなるまでしばし休止になります。

次回の旅に備え、全身の筋肉を鍛え上げねば……!