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新人クロスバイカー奮闘記 - 関ヶ原の合戦編 -【3】

腰が痛いだのお尻が痛いだの坂道が辛いなどと言ってグダグダしていたせいか、ナビが計算した到着時間を大幅にオーバーしてようやく関ヶ原に辿り着きました。

Apple watchのアクティビティにて色々と計測していたので、そのデータを御覧頂きたいと思います。

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みつばちの郷に立ち寄った際、一時停止していた計測の再開をうっかり忘れてしまったので正確な数字ではないんですけども、本来であれば3時間半ほどで辿りつけるはずだったのに5時間近く掛かってしまっていますねえ。

そして最初の記事「新人クロスバイカー奮闘記 - 関ヶ原の合戦編 -【1】」でも言いましたが、時速11kmってジョギングかよw

こんなにノンビリ移動してたら合戦終わっちゃうよ……。
逃げ帰る石田光成と道中バッタリ出くわすレベルだよ……。

色々と合戦関連史跡を回るつもりでいたのですが、日暮れまで恐らく2時間もない!という事で、大急ぎで散策開始。

滞在時間より移動時間の方が多い(´・ω・`)

JR 関ヶ原駅

関ヶ原といえば、ホームにある看板ですよね!
西軍と東軍の武将名がずらーっと並んでいるアレです。
今回は撮り忘れてしまいましたが……。

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電車で京都へ行く際、車内からいつもその看板を見ていて「関ヶ原観光したいなあ」と学生の頃からずーーーっと思っていたんですが、ようやく三十路を過ぎてからそれを実現する事が出来ました。

到着したの夕方だから全然ゆっくり観光出来なかったけどw
しかし、有名な合戦場の史跡巡りは短時間でも楽しかったです!

関ヶ原駅前観光交流館 いざ!関ヶ原

駅のすぐ正面に、観光案内所があります。
ここでは自転車の貸出もしているそうですよ!(半日500円、1日1000円)

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各武将ごとの史跡めぐりルートが記載された看板も見る事が出来ます。
これ、ものすごく便利です!

徒歩で散策は物凄く時間掛かると思うけど、楽しそうですよね~。

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本田忠勝陣跡

なんと住宅地の狭間にありましたw
真田丸の本田忠勝はステキでしたね~。(無双verもスキ)

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本田忠勝は武勇の誉れ高く、徳川四天王の一人に名を連ねる。

関ヶ原の戦いでは、東軍の軍艦として約5百の兵を率いてこの辺りに布陣。
伊勢街道を抑え、南宮山(垂井町)方面の西軍諸隊と、
桃配山に布陣する徳川家康本隊の間にあって戦況を睨んでいた。

南宮山の西軍諸隊は動かないと見切ると、徳川本隊の前進と合わせ自らも戦闘に参加する。
午後には松平忠吉井伊直政らとともに敵中突破を図る島津義弘を追撃している。

忠勝は「鹿角脇立兜」を被り、天下三名槍蜻蛉切」を手に、肩には葬った敵を弔うための大数珠を下げ、その生涯57度の戦いで傷ひとつ負わなかったという。

※現地の案内看板文章より転載


西首塚

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関ヶ原の戦いでは、両軍合わせ15万余とも言われる兵が集結した。
戦死者数は諸説あり未だはっきりしていないが、夥しい数に上ったであろう。

戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり戦場に残された夥しい戦死者の処理を命じた。関ヶ原一帯を領していた竹中重門は、その命を受けて遺体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営した。

西首塚は、国史跡指定された昭和6(1931)年の官報に「小塚ニシテソノ上に三本ノ老檜アリ」とある。現在も、高さ2メートル、周囲約30メートルの小塚が残り、往時の姿を偲ぶことができる。明治39(1906)年に建てられた碑に「関ヶ原合戦戦死者胴塚」と記されるように、名のある士から雑兵まで、首のない胴も埋葬されたことだろう。

近隣には、名も無き兵士たちのものと伝わる五輪塔が今も残る。明治時代に行われた鉄道工事(現在のJR東海道線)や、梨の木川改修工事の際には、夥しい数の白骨や刀が出土している。

敷地内の観音堂は寛政5(1793)年に建立され、幾多の修理を重ねてきた。
近隣の人々や中山道を行き交う旅人の安全を願う「馬頭観音」や、皆の願いに手を差し伸べる「千手観音」が併祀されている。

戦死者の慰霊と地域の安全平和を願う行事は、地元住民により今なお続けられている。

※現地の案内看板文章より転載


柴ノ内 関ヶ原合戦 戦死者胴塚

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胴と首が別々の場所で埋葬されているって凄い状況ですよね。
しかし、当時の技術ではどの首がどの胴体から切り離されたものなのか、判別するのは難しかったのでしょう。

後々に紹介しますが、首を実検する「床几場」というものがあったそうな。つまり戦死者の体は基本的に首と胴体が繋がっていないという事になります。
切腹の場合は判別出来るけど、合戦中に胴体を捨て置いて首だけ持っていかれてしまったら、そらどれが誰だか分かりませんよね。

21世紀の日本で生きている私たちにはとても想像がつかない凄惨さです。

戦国ロード

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大谷吉継のお墓へ向かう途中に見つけました。
ここを真っ直ぐ行くと、大谷吉継陣営跡や墓、松尾山眺望地に辿り着きます。

平塚為広碑

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垂井城主(不破郡垂井町)の平塚為広は、盟友・大谷吉継の配下として北陸方面を転戦した後、戸田勝成とともに約6百の兵で藤川台に布陣した。病を得ていた吉継に代わり前線の指揮を託されたといい、藤堂高虎京極高知らを相手に善戦した。

正午頃、小早川秀秋が寝返ると、吉継とともにこれを追い返すが、脇坂安治らも寝返ったため支えきれず、吉継に辞世の句を送って討死した。

碑は、昭和15(1940)年に子孫が建立したもの。

辞世の句:名のために 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば
意味:名誉の為に殉ずるのなら命は惜しくない。限られた人生なのだから

※現地の案内看板文章より転載


次回へと続きます。